今は遠い昔となった昭和九年の夏であったろうか、私が初めて丹沢入りをした二十才の若かりし頃の思い出である。
現在程、交通機関の発達しない時分のことだから、アプローチが長いのは仕方がなかった。東京を午後出発し、中央線は与瀬駅で下車、桂川に架った津久井橋を渡り(その頃相模湖はなかったので相模湖駅は与瀬駅と云っていた)星の煌く夜空の下を石老山下の鼠坂(ねんざか)を通りぬけ、田甫の畦でかしましく鳴く蛙の声を聞きながら青野原部落へ向った。
一行は何人だか忘れたが、確か五人か六人だったろう。夜も十時頃であったか、「旅人宿」と書いた中屋という宿屋に靴をぬいだ。雨戸が締っているので叩き起して泊めてくれるかと聞くと、宿のおかみさんが愛そよくさあさあどうぞと招じ入れてくれた。
問題は宿泊料なので、いくらだと聞いたら三十銭だという。余り金を持っていないので二十銭にしてくれというと、それでもよいというので泊ることにした。(もっとも、翌朝早く起きてサービスしてくれたので、結局三十銭置いて来た)
この中屋というのは実にお粗末な造りの雑貨屋兼業で、黒光りのする狭くて急な階段をギュウギュウ鳴らして二階の部屋に通り、重い荷物をドシンと置くと、ぐらぐらっと揺れた。案内したおかみさんが降りてから一同で腹ばいになって
「とにかく、凄げえ宿屋だな。ぐらぐら動くんだから」
「何しろ、二十銭だからな」などゝいって笑った。笑った勢いで又、ぐらぐらと揺れたので、改めて笑い直した。
翌日、長野から登りにかゝって約二時間、六時半頃焼山の山頂で、こゝから見る大室山や富士の勇姿、蛭ガ岳、丹沢三峰の山々を感激の眼で眺め廻しながら朝食をとり、縦走にとりかゝった。
キビガラをからみ、八丁坂を苦しみながら登って姫次の草原で大休止、左折して蛭ガ岳へ向ったが、この間現在と違って左右に別れる岐路が多く、背丈以上のすず竹の中の径を出たり入ったりして頗る難渋したものだ。
昼少し前に蛭ガ岳にやっと登りつく。さあめしだ、ヒルめしだなどゝ、駄じゃれをいゝながら昼食の準備を始めたが、一行のうちN君の来ないのに気がつき、迎えに下ってゆくと小御岳の倒木にもたれて寝ている。どうもキジを打たないのがいけないらしいから、俺は打ってゆく、君はザックを頼むという訳で私が背負って登った。
蛭ガ岳から先、左に早戸川、右に玄倉(くろくら)川と荒々しい谷々を眺め下ろして縦走を続ける。熊木沢などのあのガラガラと広い溪谷には、随分と驚異の目を見張ったものだった。私はこれらの谷をわけ登ったら相当面白かろうと考えたので、その後早戸川の谷へ入って歩き廻ったのが、そもそもの初めであった。
親しめば親しむ程、丹沢への愛着の絆は解き得ぬ迄、結ばれて行った。三回の山旅をすれば、そのうち一回は丹沢へ出かけたのが病みつきとなり、月一回が二回にと進んでいったものである。