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鍋割峠の木炭
宮坂 和秀

 昭和二十年八月、戦争は終結して、私は間もなく階級は陸軍兵長を最後として復員した。中野区上高田にあった我が家はその年の四月の空襲のため既に焼失してしまっていたので、私はNK銀行に勤めていた停年間近い父と共に、弟の教え子の家に間借りをさせて貰うことになった。
 終戦後の虚脱状態から脱け出すには、私にとっては、心のよりどころとしてやはり山へ行くしかなかった。リュックもない、山の道具も何もない。私は勤め先の銀行から硬貨入れの麻袋を何枚か貰って来て、それをほぐしてリュックの製作から始めるのだった。
 翌年の三月頃だったか、鍋割山へ登った。それは久しぶりの丹沢の山であった。鍋割の山頂(その頃、山頂には小屋はなかった)に立った私は思う存分大気を吸いこんで玄倉(くろくら)川上流にたゝずむ塔の岳、丹沢山、蛭ガ岳、同角(どうがく)の頭、そして檜洞(ひのきぼら)丸の山々を見廻していた。彼等は又やって来ましたねというような顔をして迎えてくれているようだ。
 山頂で乏しい昼食を済ませると、鍋割峠へと下って行った。峠へ着いて見ると、寄木へ下る径の外に左へ行く径があった。以前はこんな径はなかった筈、と思いながら偵察に行って見ると崩れかかった炭焼小屋があった。そして炭俵が沢山積んであり、しかもその俵はぼろぼろに風化して中身は崩れ落ちていた。
 私はリュックを空にすると中に炭を入れるだけ入れ、そのほか風呂敷にも飯盒にも総動員してそれを持帰った。少しぐらいの苦労は何のそのである。
 下の部落で村人に聞くと、あれは旧海軍が戦時中に焼いたもので、終戦と同時に放棄したものだから持主がないという。私はそれ以来、尾根といわず、沢といわず、最後は鍋割峠を通るコースを計画しては、殆ど毎週のように通ったものだった。
 物資不足の時代は、現代とは全く違ってまことにつらいものだったが、当時の私にとっては趣味と実益をかねた山行でもあったのである。


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