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裸チョッキのヤゾウさん
西島 徳充

 宮坂和秀(本名 文夫)さんの訃報に接したのは、会報No.315号で、残念ながら葬儀に参列できなかった。知らなかったとはいえ、痛恨の窮みである。宮坂さんの追悼号に一筆をとの依頼を受けたので、会員名簿を見たら私の名前が二番目の位置にある。尤も、同じ職場で一緒だった先輩堀田正さんは会友となり、当時第一線で活躍していた小島さん、五十嵐さんも会友名簿に名を連ねているので、正式には五番目位か。「岩つばめ」132号(1957年[昭和32年])に"新人会員西島徳充 宮坂紹介"とある。今から47年前である。宮坂さんとのつき合いは第一銀行五反田支店勤務のときからで、職場では私の上司であった。当時私は奥多摩山岳会に籍を置いていたのだが、宮坂さんに要望されて三峰山岳会に入会したのである。私は当時職域山岳会(第一銀行)のリーダーもやっていて、毎週の様に山に入っていたが、「岩つばめ」の記録はやや少なめであった。
 入会当時は宮坂さんと同じ職場だった所為か、宮坂さんと二人での山行が多かった。昭和34年から昭和37年の「岩つばめ」の記録を列記すると、34年6月7日丹沢「円山木沢」は宮坂さんと二人での初めての山行である。9月5日~6日峰坂峠湯船山、昭和35年12月6日大峰吾妻耶山、昭和36年1月23日~24日鹿沢湯ノ丸山ツアー、以上が宮坂さんと二人だけの山行で、3月6日の大峰高津倉山スキーツアーは山越君、宮坂さんと三人で、7月3日の同角沢は宮坂さんがリーダーで多数参加した。他、例会山行以外は山日記を見なければ解らないが、宮坂さんとの山行は数知れない。女性だけの山岳会、坂倉登喜子さんのエーデルワイスクラブから頼まれて、宮坂さんがリーダーで女性10名ばかりの沢登りを丹沢でやったが、私もシンガリのお供をしたこともあった。私は昭和37年名古屋に転勤し、鈴鹿の岩場がゲレンデになり、三峰山岳会の例会から遠退くことになった。
 昭和45年3月、宮坂さんの『随想 丹沢の山々』が発刊された。宮坂さんが数多くの山々のうち丹沢をこよなく愛し、その山や谷を舞台に歩かれた経験を随想として書いたものである。当時、我々若い者は宮坂さんに色々山の教育を受けたものである。「丹沢と履物」という文章の中で"往復はもっぱら下駄で行き、沢に入るとワラジに履き替える、その下駄ばきスタイルの元祖は私ではないか、当時は登山靴が勿体ない、運動靴、地下足袋も配給の時代であった"と記しているが、私も右にならえと下駄ばきスタイルで丹沢に行ったものである。又「ビバーク」では"丹沢では山小屋には余り泊ったことはない"と述べている。橋の下に寝たり、トンネルの中で焚火をしながら寝ていて朝早くトラックが進入してきたことなど、実は宮坂さんと私が経験した事実を書いたものである。私はこの本の編集を頼まれお手伝いさせて頂き、最後の頁に「宮坂文夫さんのこと」と題して一筆書かせてもらった。今日、宮坂さんを偲び、同文を追悼の文としてここに記したい。

 ハダカチョッキとオカンはヤゾウさんの専売特許である。四季にかかわらずチョッキ一つで丹沢を歩くことを趣味としている。またオカンは多くの人がヤゾウさんによって味わったことと思うが、西丹沢に入る時など最終で来て谷蛾の駅から歩き始め、途中でオカン(野宿)するのであるが、場所は神社の縁の下や炭焼小屋、トンネルの中など様々である。
 通称「ヤゾウ」さんと言う。山窩の言葉で「親分」のことである。一見豪快の様にみえるが仲々のフェミニストであり気軽で、丹沢行を頼まれゝば心よく案内してくれる。昭和八年十月に三峰山岳会を創立して今日まで続いているのは、やはりヤゾウさんの人柄によるものと思っている。
 ヤゾウさんが山に登ったのが昭和七年頃、その中でも丹沢に熱を入れ、一年に丹沢だけで三十回も行ったと言うから、丹沢の主であることはまちがいない。丹沢の全域に亘る沢や尾根を登り、土地の人に沢の名前や地名を聞き乍らそれを記録して今の案内書が出来たのである。日地出版から出している「丹沢山塊」はその足の記録である。この記録の中から記行文を除いて書き綴ったのが、この「丹沢の山々」である。我々の知らない丹沢の歴史や孫仏岩の話など丹沢の山山をたゞ登るだけでなく、この本を読むことによってまた一つ楽しみがふえるわけである。ヤゾウさんは本当の山男である。丹沢だけでなく。第一銀行松本支店在任中は、アルプスの山々も歩いているし、郷里の諏訪の山々もくわしい。今度は「丹沢の山々」ばかりでなく「日本の山々」も書いていたゞきたいと思っている。


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