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ヤゾーの想い出
播磨 忠

 私が三峰山岳会へ入会したのが昭和三十六年の四月、その時ヤゾー(ヤゾーとは山窩[さんか]の親分の事で、その風貌や、その行動から、三峰の会員は親しみを込めて、宮坂さんのことを皆ヤゾーと呼んでいた。詳細は五十周年記念年報8ページにあります。)は会の委員長をしておられ、歳は丁度私の父と同じぐらい(大正四年生まれ)でしたので、年配の方が山をやっておられるのだと感心しました。(今、思うとそれ程でもなかったのですよね!)
 それでヤゾーに最初に山に連れてってもらったのは、例会山行の五月の北八ヶ岳でした。ゴールデンウィークのまっ盛りで、新宿駅は大変な混雑で、夜行列車に乗るため長蛇の列だったのを覚えています。山行初日は大変なドシャ降りの雨で、予定を変更して、辰野旅館に泊まり、翌日快晴のなか、渋ノ湯から賽の河原を登り、高見石から中山峠、天狗岳、夏沢峠そして御柱祭で賑わう諏訪側へ下山したのが、昨日の様に思い出されます。
 当時ヤゾーは登山服にも色々と工夫をこらし、暑がりだったせいか、長ズボンの途中からファスナで、すその部分を着脱出来る様にして半ズボンにしたり、ザックなども手を加え使い易さを追求していました。又、裸の上からチョッキだけを羽織り、夏場の暑いさかりには、それだけで山を歩いていました。ヤゾーの裸チョッキは有名な話です。
 ヤゾーは三峰を創立しただけではなく、会の発展にも力を注ぎ、亡くなられた長久さんと共に頑張ってこられました。戦後の昭和二十三年に東京山岳連盟(後の都岳連)が発足した時、当山岳会を代表して委員を引き受けたり、その後都岳連になった当時も会計担当で頑張られた様です。又、戦前戦後は専ら丹沢を良く研究し、山溪で出版した「丹沢山塊」では東丹沢を担当して大いに気をはいていました。
 会務に関しては、昭和八年の創立より昭和四十年代初めまで会長(又は代表)、委員長を引き受け常に会の中心的な活躍をされていました。昨年、会も七十周年を迎え、後半は体をこわされて、会の方にも足が遠ざかりましたが、宮坂なくして三峰七十年の歴史も無かったと言えるでしょう。多分三峰の八十年百年へ向けての発展と、新しい会員諸君の活躍を、あの世から楽しみに見ていることでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。 合掌

平成十六年八月

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