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正月合宿 その1 剱岳早月尾根
越前屋 晃一

山行日 2004年12月27日~31日
メンバー (L)小幡、高橋(俊)、福間、飯塚、橋岡、越前屋

 「『岩つばめ』の原稿は私に書かせてください。」2泊目、1960Pに設営したテントで宣言してしまった。この時点で、正月合宿の敗退終了は既に決まっていた。
 剱岳のきびしい洗礼はある意味でメンバーの心を高揚させていた。登山を始めたのが遅かった私自身にとってもこれが最初で最後の冬の剱岳を登るチャンスだと考えていた。
 実のところをいうと、05年の正月合宿が剱岳に決定したという情報が入ったところで、「ああ、今年の正月は家でおとなしくしていることになるなぁ」と考えていた。もう少しパソコンが便利に使えるように「Excel」でも勉強しようかとマニュアル本を買い込んで準備している矢先に、リーダーの小幡(以下すべて敬称略)から電話が入った。
 「富山県警に届けを出す都合でメンバーの確認をとっている。」といった内容だった。「自信がないので今年は止めておきます。」こう言う私の返事に彼はひとこと言った。「行きましょうよ」。
 このひとことに私の気持ちはいとも簡単に動いてしまった。
 残念ながら、記録のかたちをとるには今年の正月合宿はあまりにも早い敗退であった。敗退の記録を書くことがこんなにも難しいものだと思いもしなかった。締め切りの一日前になってもただの一行も書くことが出来ないままに過ぎてしまった。
 ようやく書き始めたこれは敗退紀行文だ。

12月28日
 夜になって、三々五々、出発の東所沢駅に集合。大晦日から正月にかけての天気予報が芳しくないので集まってくるメンバーが口々に「どうなるのだろう」と心配そうに口を開く。剱岳は豪雪で知られる北陸の山だ。これまで、寡雪でいっこうに雪の情報がないが、いっきに降り出すこともありそうな寒気をかかえこんだ西高東低の気圧配置がひかえていた。
 この夜は、関越道から上信越道、北陸自動車道をただひたすらに車を走らす。車は2台だが、とりあえず若くて元気な高橋(俊)と老いぼれているが昨日で仕事納めを勝手にしてきて元気な私が運転することに・・・。
 途中で、運転を交代したが2台とも普段は運転しない人だから高速対面通行になって怪しくなり再び交代することになった。
 有磯海SAに着いたところで「これ、ぼくら限界だね。」ということになって、本日はここまで。29日午前3時か4時あたりだったでしょうか。

12月29日
 SAがにぎやかになる前に仮眠のテントをたたみ、眠い目をこすって出発。
 滑川ICを降りて、ナビを馬場島に設定して進んだが、まもなく冬期通行止めのバリケードに阻まれてしまった。「おかしい・・・」いくらなんでも早すぎるのだ。道路はたいして積雪状態も悪くはない。どんなに悪くても伊折までは車が入るはずだ。しばらく考えてみてようやくわかった。ナビを最短距離で設定したままだった。わけもわからずに裏道に入ってしまっていた。
 いったん上市の駅に戻ることにして、しばらく戻ると馬場島へ向かう道路標識があった。
 伊折の酒屋の前に数台の車が、うっすらと雪を被って止められていたが、どれも、山ヤの車だ。ことの事情を知らない我々は(後でこの事情を知って愕然とすることのなるのだが)、「まだ、いけるんじゃないの。」ということで<の~天気>に意見が一致して特に気にすることもなく進むことにした。
 「雪がところどころ凍ってるけど、全然、平気じゃん!」
 まもなく車止めのゲートが現れて、ようやく観念した我々はすぐそばにあった「剣青少年の家」の脇の車を止めることにして身支度を整えた。このとき9:00am。
 ゲートから馬場島の道は、若干の積雪があるものの轍の部分は道路の舗装が見える程度のものだった。
 いいかげん飽きてきた頃に登山指導センター(富山県警上市警察馬場島派出所)が見えた。
 登山届けは既に受理されていたが、リーダーが入山の確認に行くと、まもなくメンバー全員が招き入れられた。
 あの「ヤマタン」だ。ひとりひとりに手渡され周波数がそれぞれに設定されていた。
 応対していた山岳警備隊員がひとことボソッと言った。「まあ、これを使うときは寂しい話になってしまいますけどね。」やはり、そういうことなのだ。発信専用なのだからその場では探しようがない。そうなると、雪崩ビーコンは必携ということになる。
 馬場島を11:30に出発。1日目の幕営地・松尾平に到着したのは12:30だった。まだ早いので、もうすこし上に行ってみて適当な幕場をみつけてみることにして登ってみたが、結局2張りのテントを設営できるところはなく松尾平に戻ることにした。テントに落ち着いたのは14:00。くつろいで、昨夜の疲れをとる。
 ところで、くだんの車のことだが馬場島派出所でのこの会話のやりとりから想像して欲しい。
 警備隊「ところで、車はどこに止められましたか?」
 俊「あ、伊折ですけど・・・」
 警「それは、良かった。奧まで入ってくる事情を知らない人が、降りてから車を動かせなくなることが・・・、春まで・・・」
 が~ん。
 越「いや、その伊折といってもゲートまでなのですが・・・」
 警「除雪は酒屋のところまでなんです。」
 我々は事情を知らない人たちだったんだ!!これから、車の移動でピストンだ!
 警「車の鍵を貸しておいてもらえますか。あとで何か用事をつくって動かしておきますから・・・」
 すごい!富山県警山岳警備隊はすごい!心から感謝だ!

12月30日
 朝、テントを出ると、昨日まであったトレースがすっかり消えていた。
 前日の運転の疲れでぐっすり眠っていたらしく気がつかなかったが、一晩中降っていたようだ。
 膝上、場所によっては腰までのラッセルになった。出発が7:30で昨日戻ったところに着いたのが9:00。確か、昨日は30分ほどのことだったから3倍の時間がかかっていることになる。
 1400mあたりからだろうか、急登が始まる。やはり、ここ一番小幡の力強いラッセルだ。俊がいきいきしている。1600mぐらいのところで先行の3人パーティに追いついた。ここから9人のラッセルになったが、完全にトレースが消えているので、ルートファインディング自体に時間もかかることになる。
 1900m手前あたりで、下から小屋泊まりのパーティが登ってきた。聞けば、芦峅寺ガイドのパーティなのだが、朝7時に早月小屋を出発した同じ芦峅寺のパーティと合流できないという。先頭でラッセルしている我々が会っていないのだから会うはずがない。
 話しているところにコールが聞こえてきた。これで早月小屋とつながった。
 小屋は一晩で1.5mの積雪があったという。テントはみなつぶされたそうだ。
 ドッキングしたのが15:30だから、早月小屋から1900mまで8時間を要したことになる。「そこら中、いっぱい足跡をつけちまったよ。はっはっはぁ。」芦峅寺ガイドにしてこれである。やはり剱はすごい。
 後続のパーティは息を吹き返したように早月小屋に向かった。しかし、朝から、ラッセルを続けてきた我々は疲れきっていた。おそらくこのまま登っても早月小屋にはとどかないだろう。結論は、1960mの台地に幕を張ることに決まった。
 天気はこの先も思いやられた。入山前の天気予報のまま気圧配置は動いているようだ。
 このまま判断を先延ばしにして、早月小屋にいったとしても剱岳登頂は99パーセント無理であろう。へたをすれば下山に他人の手をわずらわすことになりかねない。いさぎよく明日撤退することに決まった。敗退である。
 しかし、みんな、意外にすっきりしていた。たぶん、自力でここまでラッセルして登ってきた満足感が大きかったのだろう。
俊が歌集をとりだした。

 剱みるなら 赤谷尾根でよ
 小窓 大窓 三の窓 ダンチョネ

12月31日
 テントを撤収。まださほど降ってはいないが先の天気は読めた。
 馬場島で「ヤマタン」を返して、伊折へ。
 伊折の酒屋の前に車は重たい日本海の雪にすっぽりと包まれて待っていた。


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