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インド・ジャム&カシミール州・マリ峰
天城 敞彦

山行日 2007年7月24日~8月22日
メンバー 天城、他6名

 インドヒマラヤに行って来ました。派遣母体は「日本山岳会石川支部」、登山隊名は「日本山岳会石川支部創立60周年記念インドヒマラヤ登山2007」。まず私がなぜそんな登山隊に加わったのかということから説明します。

1. 経緯
 石川県金沢市に、1993年に中国のパミール山脈のムスターグ・アタという山に登ったときに副隊長を務め、その後も中国のアルタイ山脈、横断山脈と2回海外登山をともにした西嶋錬太郎氏という岳友がいる。その西嶋氏の年賀状に「今年の夏にインドの6000m峰に行く」と書かれていた。私は5月末で定年退職を迎えることになっており、その後仮に再就職するにせよ、しばらくは仕事を離れのんびりしたいなと思っていたので、私が参加することはできますかと問い合わせてみた。すると登山隊長を務めることになっていた彼は、高所の経験者が少ないのでちょうどいいと実行委員会と隊員の同意を取り付けてくれて参加がかなったのである。
 ではなぜインドのマリ峰という山になったのか。インド北西部の中国との国境を跨いで長さ134km、巾8kmの長細いパンゴン湖という湖があり、その西側にパンゴン山脈とラダック山脈という2本の6000m級の山脈が走っている。この辺りは1962年の中印戦争で砲弾が飛び交ったところで、ここの東側のアクサイチンは地図上では現在でも国境未確定地域(実効支配は中国)となっている。したがって現在は軍事的な緊張関係は少ないものの外国人の入域が厳しく制限されてきた。
 石川支部は創立60周年記念ということで6000m台の未踏峰にねらいをつけたらしい。このエリアは6000m未踏峰の宝庫である。そこでこの地域に詳しい日本のインドヒマラヤ登山の草分け的存在とも言える沖允人氏に相談したところパンゴン山脈の未踏峰のなかで一番高いマリ峰(6587m)が紹介されたという(沖氏も参加することになった)。かくして平均年齢62歳強の高齢登山隊が成立した(60歳の私が若い方から3番目。石川県内5名、県外2名)。

2. 準備
 実は私は三峰山岳会に入会した2002年9月の健診で不整脈(心房細動)が見つかり翌年2月にカテーテルによる手術を行った。以後、薬によるコントロールで正常な脈拍を保っていて、医者からも何をやってもいいと言われている。実際、トライアスロンやウルトラマラソンを始めたのはそれ以降で、薬さえ欠かさなければ激しい運動をしても大丈夫と思っていたのだが、2004年に中国四川省の雅拉雪山に行ったとき(このときも隊長は西嶋氏)4500mの第1キャンプで脈が乱れていることに気付いた。ここから先はほぼアルパイン・スタイルで登る予定になっていたので、いざ不調になったときに1人で下れないところには突っ込めないと、そこでリタイアしみんなに迷惑をかけた。低酸素状態で負荷がかかると心房細動が出るのかもしれない。だから次に行くときは同じ失敗は繰り返さないよう再手術をしてからにしようと思っていた。
 この登山が決まった4月に、医者に7月末から高所登山をするので再度カテーテルによる手術をしていただきたいと申し出た。平均で1.5回かかるので1度で治らないかもしれないとは言われたが、退職後の6月5日に入院して6月7日に手術をした。ところがその晩医者は「手術は成功したが、心臓が落ち着くまでに3か月かかるのでその間は安静にしているように」と言う。そんなバカな! 7月末から高所登山をすると言ったはずだ! しかしいまさらそんなことで言い争ってもしょうがない、必要な準備は行いつつ自分の身体と相談しながら決めるしかなさそうである。
 事前の高度順化のため2泊3日で富山県の立山にある文部科学省登山研修所の低酸素室に入り、富士山にも2回行った。医者が言うとおり心臓が暴れていて薬を飲んでも手術前よりも細動は頻発しているようだったが、登山活動が本格化するのは8月になってからだから何とかなるかもしれない。トレーニングも控え目ではあるが体力をあまり落とさない範囲でやっていた。山にも行って普通に歩けることを確認した。様子を見つつ、行って不調を感じたら無理のない範囲で動くしかないと腹をくくった。
 母体が石川県なので合宿は乗鞍岳、ミーティング、梱包作業も金沢で行われたので何回か通った。観光の時間はあまりなかったが、金沢は奥の深そうな町で、兼六園にも行くことができた。医者からは「医者が止めるにも拘わらず自己責任で行くと言うことですね」と釘を刺された。

3. ニューデリー、レー
 7月24日、沖、天城が先発隊としてニューデリーへ。翌日、日本大使館、IMF(インド登山財団: 外国人登山隊の許可、管理等を行う)への挨拶、日本食を専門に扱うスーパーへの買い出しを行う。1990年以来17年ぶりのニューデリーだが、第一印象は車の増加、IT関連の店、野良牛の減少といったところか。
レーの町並み  全隊員とトレッキング隊2名が揃い7月27日、空路でレーへ。レーはインドのチベット仏教(ラマ教)、チベット文化の中心地で、ラマ教の寺院も多い。かつては秘境と言われていた垂涎の地だったが、現在は一大観光地化し外国人観光客も多く、土産物屋やホテルが立ち並ぶ。ここで高度順化、買い出しなどを行う。
 レーの地方行政官、警察を訪問したときに、われわれへの登山許可証の但し書きに「入域禁止地域への立ち入りを禁ず」があり、登山は認めるがこの地域への立ち入りは認めないという珍妙な事態が発生した。これはインド内務省の手続き上のミスだったのだが警察は官僚的で「ダメなものはダメ」という。粘ろうとしても、ちょうど7月31日にダライラマ14世が訪れることになっていたので警備に神経を使っていたこともあったのだろうか、お前らに関わっている暇はないという態度。結局、修正版許可証が届くまで5日間余分に止め置かれることになってしまった。

4. 登山活動
 レーからは5台の車を連ねて、車道が通る峠では世界で3番目に高いといわれるチャンラ峠(5300m)を越えていく。峠では高度順化のために1時間ほど歩く。やがてパンゴン湖(約4200m)が見えてくる。パンゴン湖は周囲を5000~6000m級の山に囲まれ、山から流れ込む水はたくさんあるが流れ出す川はない。そのため塩分がたまるのであろう、世界で一番高いところにある塩湖で魚はいないという(ちなみに後日泳いでみた。きれいな水で透明度は高かったが冷たくて5分ともたなかった。海水より塩分は少なくちょっとしょっぱい程度だった)。
パンゴン湖で泳ぐ  マリ峰へは東面、パンゴン湖側から登るルートをとる。目指す山がどこにあるのか、グーグルアースと大まかな地図を頼りに見当をつけ、はじめはマリ村(地図ではマリ村となっているが村人の話ではマーン村[Maan:薬草の意]だと言う)から10kmほど北の湖の近くにベースキャンプ(BC)を張り偵察を行い、検討の結果2日後の8月6日にはマリ村近くの草原の一角(4250m)に移し、本格的な登山活動に入った。
 BCからところどどころに高山植物の花もあるが基本的にガレた斜面を登るときれいな草原に出る。標高差500mで少し低いが、その上には適当な場所がなくここを第1キャンプ(C1)とする(4750m)。ここから30分ほど登ると氷河の末端に出る。ただし氷河といっても左右からの落石が多いのであろう、上に分厚く岩が堆積し、まったくのゴーロ状。歩いていても楽しくない。担ぎ上げたプラブーツを置いてトレッキング・シューズで登る。それでも3時間くらい歩くと左手には大きな懸垂氷河をかけた鋭鋒がありゴーロも減ってきれいな氷の上を歩くようになる。さらに行くと氷河はやや高度を上げて右折し、そこにも左から懸垂氷河がかかっている。しかし目指すマリ峰はまったく見えない。地形が複雑でルートの見通しが立たないし、そもそも目指す山が見えないと戦略も立てにくい。別の山にしようかという案も検討されたが、警察官が見回りに来て、ベースキャンプの移動はままならぬと言っているらしい。それではこのルートを行くしかない。
ルートとなった氷河遠望  8月10日、西嶋隊長が1人でC2(5650m)へ向かい、翌11日私と満仁崎さんがC2に入る。C2は落石を避けるために氷河のど真ん中に設置されていた。隊長はこの日単独で偵察を行い氷河の終点まで行き、さらに左からはいる懸垂氷河の右側の雪面を登り切ってきたという。そしてそこから先のマリ峰へのルートは岩峰が続き稜線通しでは行けず日程的にも装備的にも今回はあきらめざるを得ず、偵察で登った6300mほどのピークにみんなで登ることで登山を終了したいという。そこから先へ雪面が続いているようならば西嶋隊長と私でアタックをかける予定になっていたのだが、つながっていないなら仕方がない。残念ではあるが、正直、内心少しホッともした。
 雪面にはクレバスも走っているというので、全員の登頂に向けて明日からルート整備を行うことになった。しかし困ったことが起こった。C1に置いてあるプラブーツを持たずハイポーターに頼んだのが失敗で、手配したブーツが上がってきていない。やはり個人装備は自分で担ぎ上げるべきものなのだ。これでは翌日からのルート整備ができない。12日はこの登山期間中唯一の悪天で身動きが取れなかった。ということは靴も上がってこなかった。13日のルート整備は隊長と満仁崎さんにお願いした。昼過ぎにようやく靴が上がってきた。体調を崩した隊員に付き添って町まで下っていたため高度順化が追いついていない沖さんはC1に戻ったが、織田さん、前田さん、大庭さんをあわせた6人がC2に泊り翌日に備えた。
 8月14日、7:30発、6人でアタックを行う。天気は薄曇。隊長が最後尾についたので私がトップを受け持つ。クレバスには丁寧に赤布がつけてある。やや氷化したところも、部分的に膝くらいのラッセルとなるところもある。平均斜度40度くらいだろうか。今回の登山で初めてまともな雪面を登る。充実感を覚える。
山頂へ至る雪面を登る  息を弾ませながら雪面を登り切ると岩が露出しており、そこが山頂だった。13:20、6人が山頂に立った。日本山岳会石川支部の旗、日印両国の旗を出して記念撮影。残念ながらうっすらとガスがかかり展望はあまり良くない。マリ峰は見えなかったがマリ峰へ連なるという鋭利な岩峰が少し見える。確かにとても登れそうもない。
 GPSで測って6342m。翌日沖さんに再度西嶋隊長と満仁崎さんが付き添って登りこれで7人全員の登頂となった。なお後日、このピークの名を下の村の正しい名称であるマーン村からとってマーン峰と呼ぶことをIMFで認めてもらった。 山頂での記念写真

5. おわりに
 海外登山が初めてという3人も含めて、全員が6000m台の未踏峰の山頂に立てたことは大きな成果ではあろう。だが実際は目的の山の途中にあるスノーピークに登ってきたということなので、登山が成功したとは言い難い。隊長からは来年のリベンジ(反対側の西面から行くという)の話を持ちかけられていて今は考慮中である。
 平均年齢が62歳強ということもあってかなり贅沢な登山だった。隊員7人に対してハイポーターが5人もついた。したがって共同装備の荷上げはすべてハイポーターが行い、一部個人装備も上げてもらった。デリーやレーのホテルも高級だった。
 さて心配していた私の心臓は、パルス・オキシメーター(心拍数と血中酸素濃度を測る小型の医療機器)で測った限りでは、幸い心房細動は出ていなかったようだった。ただ全体的には自分の思っていた80%くらいしか力は出せなかったように思う。旧知の満仁崎さんからも「天城さん調子悪いの? これまでだったらアッという間においていかれたのに今回はずいぶん遅いじゃないの」と言われてしまった。それが心臓のせいか、高度順化の遅れのためか、加齢のためかはよくわからない。

隊員構成
隊長西嶋錬太郎(1942年生)石川県金沢市(総務、渉外)
副隊長織田伸二(1950年生)石川県金沢市(会計、環境)
隊員前田健進(1939年生)石川県かほく市(記録)
隊員大庭保夫(1941年生)石川県加賀市(装備、輸送)
隊員満仁崎幸世(1955年生)石川県津端町(医療、庶務)
隊員沖允人(1935年生)栃木県足利市(情報、渉外)
隊員天城敞彦(1947年生)東京都高田馬場(食料)

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