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出牛(じゅうし)峠
なりた よしまさ

山行日 2009年1月3日
メンバー 成田

 「秩父の峠」という本がある。昭和63年刊行だから20年ほど前の古い本である。勤務の傍ら秩父の集落を訪ねては大正、昭和の峠の様子を聞きだして纏め上げた本で、山歩きの本ではない。商家、農家、宿などの昔から住んでいる古老から峠がどのように利用されていたか訪ね歩いている。紹介されている峠はよく知られた峠が多く、その殆んどは行ったことのある峠なので興味深く読ませてもらった。古来、秩父は武蔵の国の中では最初に開けた地方である。古代は昼なお暗い原生林であったか、沼地であっただろうから西部山岳地方の尾根道が重要な交通路であった。一つは雁坂峠であり、もう一つは十文字峠で、甲州、信州と近年まで交易路として使用されていた。ことさら十文字峠は縄文時代から開かれていて、信州で産出される黒曜石が秩父では狩猟用の鏃となって遺跡から発見されている。大正末期までは米や味噌といった生活物資も信州から秩父へ運ばれ、秩父からは繭、煙草、塩などが運び出されていた。更に三峰信仰が盛んな時期は信州からこの峠を越えて三峰講として大いに利用された。信仰といえば秩父三大霊山の一つである両神神社。こちらは佐久方面から志賀坂峠を越えて詣でていた。ただ、両神参拝は三峰講が三峰山にある神社であったのに比べて、両神山ではなく里宮の日向大谷の両神神社や手前の浦島にある両神大社を詣でていたらしい。
 転じて江戸方面の主要峠は粥仁田峠、釜伏峠と正丸峠だった。粥仁田峠は小川から河越に出て川越街道を通って江戸へ。正丸峠は江戸への最短距離にあったから他の峠より利用者が多かった。しかしこれらの峠も明治29年に荒川沿いに道路が開かれると寄居から熊谷へ抜けるルートに変わり、大正3年に秩父鉄道が秩父まで開通すると秩父のメインルートは大きく変革していった。さらに東武東上線が寄居まで全線開通し、新正丸峠にバスが通るようになると、峠の必要性も薄まって小さな役割を果たす単なるローカル道と化していった。
出牛峠分岐にある石の道標  秩父周辺でまだ行っていない峠はないかと調べてみると、あった。出牛峠。長瀞町(旧野上町)と皆野町・出牛集落を結ぶ峠である。この峠は単に集落と集落を結ぶローカルな峠ではなかった。児玉地方と秩父を結ぶ、言わば秩父の北へのルートとして重要な峠であった。かつて、児玉はこの辺り一帯の核都市であったから出牛集落は江戸時代から明治にかけては宿場町として栄え、人形芝居小屋や数件の遊郭まであった。そして荒川沿いに国道が建設される以前に、先ずここに秩父新道が建設され、最初の馬車通行可能な道路として出牛集落を経て児玉へと繋がった。この新道開鑿に当たって、村民は強制的な労務提供をするか、米やお金といった強制負担を課せられたため、その不満が秩父事件の一因とも言われている。
出牛峠。今では変哲の無い峠だが昔は違った  出牛峠から筑坂峠まで実に8つの峠があるが、昔はこれらの峠を越えて秩父と児玉地方を行き来していた。両地方の交易路であった峠を結んで歩いてみたら面白いのではないかと計画した。朝7時、秩父鉄道の野上駅で下車。さすがに里山の朝は寒く、畑には霜が降り、歩いている内に鼻の頭が痛くなってくる。出牛峠の道しるべとなる石碑を探しながら県道13号(唐沢新道)を進む。井出入橋の先で大正11年1月銘の「右 峠ヲ経テ出牛に至ル 左 唐沢ヲ経テ出牛に至ル」と彫られた古い石の小さな道標を見つける。新道は大正6年に開通しているので馬車は新道を、人は峠道を辿ったのだろう。今では長瀞ゴルフ倶楽部の看板が目立つ。ここから5分ほどでゴルフ場への道と分かれて峠道へと入る。まもなく3方向に分かれるが秩父ロングウォーキングの札が立木にくくりつけられていて迷うことはない。竹林と雑木林の旧道を15分ほど行くと、あっけなく出牛峠。峠は舗装された林道陣見線が横切っており、峠道は出牛集落へと下っていく。出牛と書いて「じゅうし」と読む。何とも奇妙な地名だが、島原の乱から逃げ延びた隠れキリシタンがゼウスをもじって付けたとか、十字架をもじったとかの言い伝えがある。出牛の西福寺には十字架と紛らわしい刻みの入った墓もあるらしい。
 出牛峠はまた秩父事件とも深い関わりがある。秩父事件は明治17年10月31日から11月4日にかけて、埼玉・群馬・長野などの民衆数千人が負債の延納、雑税の減少などを求めて武装蜂起した事件。11月4日武装した農民がこの出牛峠を越えて児玉地方へ進軍して行った。しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起を知った政府は鎮台兵を送り込み、同日、児玉町郊外において激しい戦闘の結果壊滅する。敗残の兵は再び出牛峠を越えて故郷秩父へと敗走した。
 さて、林道歩きでは味気ないので尾根に上がるべく山道に入ってみたが、山腹を巻いているので適当に尾根に取り付いてみたら藪が多く服を草の実だらけにしながら頂にあがった。そこは椎茸栽培地になっていて踏み跡も現れ、辿っていくとまた林道に降りた。降りた場所は児玉町の標識がある「ぐみのき峠」で、峠道を探してみたが見当たらなかった。この先、山道は林道と出入りを繰り返す。基本的には林道歩きを避けて、尾根道を歩くことに決めていたから上がり易い所があれば尾根へ。苔不動への分岐から少し行った不動峠からは立派なハイキング道に変わる。尾根伝いに登った不動山(549m)は長瀞の最高峰であるが植林に囲まれて展望はない。そこからロープのある急斜面を下ると間瀬峠。
 県道長瀞児玉線と陣見線が交差した広い車道。明治時代は茶店があって団子を頬張って一休みしたとか。茶店跡を探そうと付近を歩くと道端に「庚申塔」と刻まれた文政11年3月銘の石碑と「馬頭観世音」と刻まれた天保2年3月銘の石碑が残されていた。馬頭観世音の基には手製のマジック書きで「国道299号線まで60分、左折して樋口駅まで8分」の立て札が立っていたがロープが二重に張られ通行止めになっていた。
間瀬峠の庚申塔と馬頭観世音の石碑  雨乞山への急斜面を登り山頂に達すると草原が広がりハンググライダーの滑空場所であるため秩父側に展望が大きく開けている。眼下をゆっくりと流れる荒川や釜伏山の峰々が見える。今では荒川沿いに国道が通っているが、明治までは道路が開鑿されることはなかった。それは波久礼付近で荒川に山が迫し出し、川も蛇行しているので難所とされていたからだ。難所が故に人も馬も釜伏峠越えを選び、峠は日々賑わいを見せていたとか。峠には関所も置かれていた。
 山頂からは車が通れそうな広い林道を下るとまた陣見線に出るがそこは榎峠。今は樹林に囲まれているが、昔は馬の飼料用の草刈場だったから見晴らしも良かっただろうし多くの馬が秩父と児玉を行き来したようだ。今でも秩父側からしっかりした小道が登ってきており、小さな祠と天保2年8月銘の「馬頭尊」が残されている。
 次の峠は陣見山を越えた大槻峠。右からしっかりした道が峠を越えていく。ここにも2つの石碑が残っており、1つは安永9年銘で「馬頭観世音」、もう1つは寛文9年銘で「如意輪観世音」。ここも馬の往来で賑わっただろう。
峠道から児玉町と赤城山  峠と峠を繋いだ山歩きも筑坂峠からかんぽの宿に下り切った所で終わった。陣見山からは丹沢・奥多摩と変わらぬ広い登山道で多くのハイカーに出会った。天気も良いし長瀞の街を見下ろしながら、たまには上州の高崎や前橋の市街地とその奥に見える赤城や榛名を眺めながら。しかし峠の殆んどは舗装されており、未舗装の峠は大槻峠と筑坂峠だけだった。しかも車の往来はなく何故こんな立派な林道を通す必要があったのか理解に苦しむ。林道を通すと峠ばかりではなく、そこに至る旧道までも破壊してしまう。一度破壊されると復元は難しい。名前だけが残り峠道が消えてしまった峠もある。古から先人が歩いた歴史ある峠はずっと残してほしいと思うし、峠が廃道化して消えていくのは残念である。しかしながら、峠の意義を知って歩くのと、知らないのでは面白味が違った。今度は何処か別の峠歩きをしてみたいと思う。
 時間はまだ2時なので予定を変更して、円良田湖に廻って鐘撞堂山の展望を満喫して帰宅した。


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