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水田氏結婚式&荒島岳
服部 寛之

山行日 2009年10月10日~12日(10日結婚式、11日荒島岳)
メンバー 箭内、原口、藤井、小堀、服部

 10月の三連休に石川県加賀市で行われた元委員長の水田洋氏の結婚式に出席し、その折に深田百名山の荒島岳に登ってきました。非常にすばらしい結婚式だったのと、関東からはなかなか足の向きにくいところにある一座での好天に恵まれた楽しい山行でありましたので、ここに報告したいと思います。

 水田洋氏のことを知らない会員もかなりいると思いますので簡単に紹介します。水田氏が入会したのは、はっきりとした記録が見当たらないのですが、94年初頭だと思われます。94年2月に笹子の大沢山(L福間)に行ったのが入会後の初山行だったようで、岩つばめ285号に彼の書いた報告が載っています。入会のきっかけは、東京に転勤してくる前に活動していた『札幌山の会』の仲間で、かつ会社の同僚であった内藤尚登氏(現会員の内藤美智子さんの旦那)が、かつて自分たち夫婦の出会いの場であった三峰を紹介したからでした。入会してからは尾根・藪・沢・雪山などに精をだしていましたが、96年4月大久保氏の後を継いで委員長に抜擢され99年3月まで3三年間委員長を務めました。その後は金沢に転勤となり、いつか東京に戻ることもあるだろうとずっと会友籍をあたためていましたが、今年(09年)6月自然農にもとづく田舎暮らしへの転身を機に退会しました。
 結婚の話は、退会の連絡をしてきた翌7月の上旬に服部のもとに電話をよこし、「こんど2年半つきあってきた人と10月10日に結婚することになったので、三峰から何人か式に来てもらいたいので手配よろしく」とナンともうれしそうに言ってきたのが最初でした。ちょうど小幡氏のカップル誕生のニュースを聞いて間もない頃だったので未だにキューピッドの矢がはずれまくりのわたくしとしては「水田よ、おまえもか」とややカエサル的気分で驚きつつ小幡氏の話をすると、水田氏も「えっ、あの小幡氏が・・・」と自分のことは棚に上げて驚愕し、電話の両端で互いに絶句しつつもぼくはすぐさま関係各位にメールを打って水田氏の話を報告し、こうして極私的三峰晩婚二重狂想曲の夜は更けていったのであります。その後水田氏から正式な招待状と案内が服部のもとに届き、荒島岳登山と抱き合わせた計画をHPの談話室に掲示して募集したところ、最終的に箭内さん、原口さん、藤井さん、小堀氏、服部の5名で行くこととなった。大久保氏からも手が上がったが、勤務先の引っ越しと日程が重なり行かれなくなってしまったのは残念であった。
 式は3連休初日土曜日の午後1時半から水田氏の現在の住居である『旧・市の谷山荘』で行われる予定であった。そこで、高速の休日千円を利用して安くあげようと、9日金曜の夜11時に本厚木駅南口に集合し拙車で出発する。厚木ICから東名に乗り名古屋から名神に入り米原で北陸道へと乗り継いで福井北ICまで夜通し走る。拙車では先の5月連休に阿蘇や久住への九州遠征を経験しているので、この程度の距離ではことさらたいへんとも思わない自分の感覚がそらおそろしい。今回原口さん以外は全員運転手に指名されていたのだが、敢えて誰とはいわないが道中後部座席でクロロホルムを嗅がされたトノサマガエルみたいにどてんとひっくりかえっていた左党の2人は、ナンと、コトもあろうに、本厚木に集合した時点ですでに出来上がっていたのだ!というトンデモ事実を深夜の百%濃厚酒臭空間を生き抜いたわたくしとしてはここに直訴して溜飲を下げたい。右党には決して真似のできない寝技であったところが実にくやしい。
 福井北ICから水田氏の住居までは石川県への山越道R364をもうひとっ走りするのだが、だがその前にまず山中温泉をめざす。山ヤたるもの厳粛なる結婚式の前に己が身体を清めるは当然ぞ、などとは露ほども思わず、ただただ本能に導かれるままに赴く。朝からやっているという共同湯『菊の湯』に6:15着。ほどなく6:45の開扉を待ちかねるように周辺からお風呂セットを抱えたお年寄りたちがぞくぞくと集結し、時間となるや一斉に突入して行ったのには驚いた。フンドシを解くのに手間取りいちばん最後に湯殿に入ってゆくと、左右の壁ぎわには一心不乱にからだを洗うお年寄りたちの背中が一列にならび、中央の大きな湯船にはボーゼンとそれを見守るわが同志たちの首が浮いているのであった。湯船は腰が浸かるほど深く、無色透明の熱めの湯はわが細胞のDNAをくすぐって心の襞をときほぐすほどの実力で、あ~てんごくてんごく。この共同湯は、湯殿も脱衣所もせこせこしたところのない大きめの造りでしかも隅々まで清潔さが保たれており、建物の外観も個性的な天平風な造りで温泉街の景観に華を添えていた。そうした佇まいと朝一に共に湯を楽しむ風習は、この街に暮らす人々のもつ大らかさと生真面目さ、そして何よりも自分たちの湯を守る彼らの愛情を垣間見せてくれたように思う。こういう出会いが旅人には嬉しいのだ。なお、この菊の湯は建物が男女別で、大きな広場を挟んで同じような造りの女湯が建っている。(6:45~22:30、¥420)
 水田氏の山荘は菊の湯の手前5㎞にあった我谷ダムからさらに8㎞ほど東へ入った沢沿いに建っていた。ダム奥への道といっても、この県道153号線は途中やや狭いところもあるが2車線の立派な舗装路だ。菊の湯からは20分ほどである。道路脇の駐車スペースにクルマを停めていると山荘オーナーの林さんが出迎えてくださった。新郎新婦は式の支度のため町へ下りているという。さっそく2階の部屋に通され、そこで休憩させていただく。途中のコンビニで仕入れてきた簡易メシと原口シェフ持参の心尽くしのおかずで腹をなだめたあと、昼ごろまで仮眠させてもらった。
 この『旧・市の谷山荘』は、山荘として使われていたこの地を現オーナーの林さんが買い取り、彼が理想とする自然の中での暮らしを実現すべく『山の学校 いちの谷』と名付けて最近スタートさせた施設なのだそうだ。そしてこの6月から水田氏と今回めでたく妻となる高松美智子さんのカップルがスタッフとしてここに住み始めたという。先ほどの山中温泉はその名のとおり周囲を山に囲まれたところに開けた湯の街だったが、ここ市の谷地区(住所は加賀市山中温泉市谷町)はこの地で人が住む唯一の施設であるこの山荘が当地区の発展を一手に担っており、周囲には未来への潜在力を内包する深い森が広がっていて、両者の「山中度」を競うならこちらの方が断然上なのだ。水田氏は山の生活はあこがれだったと言っていたが、施設の裏手には裏山があり(うらやまし~)、そこに自らの手でつけている登山道ももうじき完成とか。それにすぐ近くには「古九谷窯跡」があって、やきものにも深いゆかりのある土地のようです。
 お昼過ぎ礼服に着替えて階下に下りてゆくと、式場となる1階の広間はほぼ支度が整っていた。一旦外で受付を済ませたあと、式場後部に設けられた座布団席について式を待つ。
こんな感じの会場でした  今回仏式で挙げるというので数珠を持参したのだが、佛前結婚式は初めてなので興味津々である。広間は二人の門出を祝うために集まった50名ほどの参列者でじきに埋め尽くされた。式の前に経文や宗歌の載った小さな本が配られ、進行役のお姉さん(美形!)の指導で式中歌の練習があった。歌は西洋式の楽譜に記されていてオルガンの伴奏がつき、形の上ではキリスト教の讃美歌と同じところがおもしろい。外国から入ってきたものを出所由来に頓着せず自己流にアレンジして違和感なく取り込んでしまう日本人の器用さがこういうところにも発揮されているのは発見であった。続いて新郎新婦の入場となり、紋付袴でキメた水田氏と綿帽子に白無垢姿の美智子さんがしずしずと登場、正面に設けられた祭壇前の低い椅子席に着く。次いで式を司るお坊さんが着座されると、会場はおごそかな空気に引き締まった。続いて「開式のことば」、次いで「総礼 一同合掌」となったが、数珠を持って手を合わせるところで佛前を実感する。合掌は式中何度かあったが、「膝は崩していても良いが、合掌の際は必ず正座」との事前のお達しに従ってその都度座り直すのは結構大変であった。参列者の多くは日頃の観経に慣れているのかずっと正座のままだが、普段から不品行一徹なこちとらはとてもそうはいかない。「合掌」の号令一下皆に遅れまいと焦って態勢を立て直そうとするも、体重に抗し難い長い脚を与えられた座布団陣地内でやりくりするのは相当な難儀であった。その後先ほど練習した「真言宗歌」を合唱し、引き続き『正信偈』を唱和する。「しょうしんげ」はオール漢字の漢詩風で、ルビが振ってあってもついてゆくのがやっと。昔苦手だった漢文の授業を思い出してしまった。中身はよくわからないがキリスト教の使徒信条のようなものか。その後「表白」、「司婚のことば」、「誓いのことば」、「念珠授与」、「新郎・新婦 献香」、「式杯」と仏式らしい一連の婚礼儀式がつづいたあと、参列者一同での「乾杯」となった。各席には底部に蓮の浮彫文様の入った素焼きの杯が事前に配られてあり、それを手に持って構えていると、手付きの銚子を手にまわってきた袈裟姿のお兄さんに日本酒を結構注がれてしまった。お酒飲めないんですけど、とも言えず「こんなに飲んだら調子悪くなっちゃう~」と不安におびえていると、仏さまのご配慮か、全員に酒を配り終えるのに思いのほか手間取り、その間酒は素焼きの杯に吸収されてみるみる目減りして行くのであった。これが明暗を分けた。「助かった!」とわたくしは喜んだが、しかしこの「待て」にやきもきさせられた左党の二人は意気消沈し、酒が杯に吸われたぶん余計調子が悪くなってしまったのであった。その後「祝詞」、再び「一同合掌」、そして「閉式のことば」、「司婚者退場」、「新郎・新婦退場」と続き、つつがなく式は終了した。
 その後、式場を宴会場に模様替えするため参列者は一旦外に出た。しかし外で待つのは全員ではなく、多くが宴会の準備に奔走していた。というのも、この結婚式は業者によるプロデュースではなく、式も宴も何もかも二人の友人らによる手づくりなのだ。こういう話は私の周りでは殆ど聞かれないが、このことこそ、いまこの二人が身を置く社会の豊かさ・温かさを物語っており、こうした交友関係を実現している二人はまこと羨ましいと思わずにはいられなかった。
 宴会では水田氏の山岳会関係者は前方の一角に集められ、札幌山の会の会長佐藤眞氏と三峰の5名とで1卓を囲んだ。宴会が始まってしょっぱな佐藤氏が指名されて札幌時代の水田氏を語り、つづいて服部が立って三峰を代表して挨拶した。当日その場で頼まれた挨拶ではうまく話せなかったが、水田氏は喜んでくれたようでホッとした。うちらの座は当然山と酒の話で盛り上がったが、札幌山の会も三峰も共に会長が左党の佐藤であるというのはどういう因縁か、と料理皿の向こうにズラリならんだ銘酒の瓶を眺めて思った次第。ここは両会にとって吉兆であると強引にでも信じたい。
 宴会ではその後も何人かが立って二人の逸話を紹介したが、どの話も笑いのなかに二人への敬意と温かな友情が溢れていて、こころほぐされる思いであった。続いて、手づくりケーキへの入刀があったり、余興では媒酌人を務めた林さんの本格的なマジックや美女三人組による歌などが披露され、飛び入りで箭内さんの水田パワーによるマジックまで飛び出して和気あいあいの雰囲気のうちに宴は大いに盛り上がった。
夫婦初の共同作業は鯛の塩釜焼き割りでした 左右は媒酌人の林御夫妻  極め付きは新婦の新郎に対する挨拶であった。向かい合って立つ新郎に美智子さん曰く、「この日のために心を込めて書いた手紙を置き忘れてきてしまったが、これからの人生私が引っ張って行きますのでよろしく」との意表を突く宣言に水田氏がぺこりお辞儀を返すと全員の笑顔が爆発、やんややんやの拍手喝采となった。この二人なら絶対仲良くやって行ける、末永くお幸せにね、と皆が確信し祝福した瞬間であった。
新郎新婦ごあいさつ  水田氏が東京を離れて早10年、今回何年かぶりで再会した水田氏は痩せて精悍な顔つきになっていた。それは人生に向き合う静かな覚悟が落ち着きとなって顕れているような印象で、ぼくにはそれがとても嬉しかった。奥さんとなった美智子さんは明るいパワーに溢れた人で、ぼくはこういうタイプの人は初めてだが、原口さんに言わせると典型的な大阪のおばちゃんだそうな(失礼!)。その笑顔には、年下だが大きな度量でうまく家庭を切り盛りされてゆくだろうなと安心させられた。二人には本当に幸せになってもらいたいと思う。
 10日の結婚式の夜はそのまま山荘の2階に泊めていただけることになっていたので、意気投合した佐藤氏と連れだって山中温泉の「道の駅・ゆけむり健康村」の「ゆ~ゆ~館」なるところに行って健康増進にいそしんだ。ここは内風呂と露天、サウナ等を備えたどこにでもあるような大型温泉施設だった。山荘に戻ってからは残ったご馳走をつまみながら林さん夫妻とやはり泊まりのもうひと組の夫婦も交えて呑み直す。幾分冷えてきた山の空気にしみじみとした時間が流れゆく晩だった。
11日の朝、山荘前にて 中央に水田夫婦、後ろは林さん  翌11日は快晴。朝7時過ぎにおいとまし、荒島岳に向かう。登山口のひとつカドハラスキー場から登ったのは箭内さん、原口さん、藤井さんの3名。膝が痛い小堀氏と腰に不安を抱える服部は、せっかくの百名山だが、ここはぐっとこらえ、代わりに勝山市の福井県立恐竜博物館に行った。荒島岳登山については、箭内さんが別原稿を書いているのでそちらを見てください。この恐竜博物館は恐竜王国福井の顔的施設で、何十体もの骨格標本をはじめ充実した展示内容はすばらしかった。ゴジラとガメラも大好きだが、何と言ってもこちらは実際に生きていた生物であり、資料から喚起される興奮の質がまったく違う。個人的には恐竜の生命が現代の鳥に受け継がれているところが大コーフンなのですね。お昼になったので館内のレストランで小堀氏は「プテラノ丼」を、小生は「恐竜のたまご」を食してみたが、・・・・・・ビミョー。
 登山口に戻ってもまだ3人が下りてくるまでには時間があるので、スキー場近くの道路沿いで看板をチラ見した「鳩ヶ湯鉱泉」に行ってみることにする。すぐ近くにあるものだと思っていたらとんでもなかった。川沿いの細いクネクネ道を往復30キロ超も行くハメに。しかし建物は古き良き昭和の時代を感じさせる佇まいで、歩くほどにきしみ、タイルの風呂にもそれなりの年月が沁みつき、湯船から見上げると窓ガラスに貼りついたカメムシが妙に侘しく宙に浮かんでいるのだった。宮崎アニメのモデルになりそうな、どこか懐かしさを覚える宿だった。
 その夜はカドハラスキー場の少し先にある「国民宿舎パークホテル九頭竜」でゆっくりし、翌12日は昼ごろまで近くの郡上八幡の街をぶらついてから帰京した。郡上八幡で入った「蕎麦正まつい」は大当たりで、絶品の手打ちそばに皆の舌はうちふるえた。ここで出された箸もまたすばらしく、機能美を具現したような逸品であった。


箭内 忠義

山行日 2009年10月11日
メンバー 箭内、原口、藤井

 水田夫妻、林夫妻に見送られ、荒島岳に向けて出発です。
 荒島岳の登山口まで車で移動です。登山口のカドハラスキー場の駐車場はたくさんの車が止まっていました。百名山なので人気の山なのです。
 服部さん、小堀さんは膝や腰の調子がいまいちということなので、藤井、原口、箭内の3人で登りました。
 スキー場のリフトを右に見ながら、いきなりの急登をゆっくりと登って行きました。
 空は青空です。光の粒がキラキラと光って降り注いでいるような爽やかな空気です。一歩一歩登ります。
 リフトが動いていれば楽ちんなのになあとブツブツ言いながら急登を歩きます。
 山道に入りさらに急登を歩いて行くと、リフトの残骸が草むらに倒れていました。かなり高いところまでスキー場だったようです。
 さらに気合いを入れなおして、おじちゃん3人は、から元気で進んで行きました。
 尾根道、ブナ林と過ぎていくと、突然平らな場所に出ました。シャクナゲ平です。多くの人が休んでいました。
 そこからもうひと登りです。痩せ尾根はかなりの急登です。鎖場もありました。しかし直に荒島岳の頂上です。
 遠くてなかなか来られない百名山の一つを制覇しました。秀麗さと品格を持つ山と紹介されていますが、なるほどそうかもしれません。下りは中出コースです。平坦な道でした。

360度の展望です小荒島岳から荒島岳を望む

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