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沢登り・清津川サゴイ沢
八須 友磨

山行日 2016年7月16日~18日
メンバー (L)荻原、深谷、古屋、津田、八須

 人が滅多に寄り付かない深い深い山奥にある一匹のイワナが居た。
 そのイワナの住む沢は両側を山に挟まれ、深い深い谷となっている。
 沢の両脇に鬱蒼と生い茂る草木が陽の光を遮り、昼間でも薄暗くひんやりとしている。
 川の流れる水音がサラサラと途切れることなく周囲に響き渡り、時たまひぐらしのカナカナカナー・・・という寂しげな鳴き声が聞こえてくる。
 人工物など一つとしてない世界・・・人が滅多に寄りつかないそんな山奥にある一匹のイワナが息を潜めていた。
 そのイワナの命が突然奪われた。2016年7月17日の昼過ぎのことであった。
 その2日前の7月15日の深夜、東京を出た我々5人は猛烈に眠かった。
 眠気で垂れ下がるまぶたを必死にこじ開けながら車を走らせた。
 向かう先は新潟県の山岳地帯。
 3日間かけてゆっくりと沢を登り、山を登ろうとしていたのだ。
 数時間眠気にまとわり憑かれながら車を走らせ、我々はようやく目的の山の麓に辿り着いた。
 時計を見ると夜中の2時。
 辺りは真っ暗闇。車の傍でテントを広げて仮眠をとり、夜が明けてから我々は山に入っていった。

 バシャバシャと音をたてながら沢を登ってゆく。
 ひざ上まで水に浸かりながら沢を登ってゆく。
 途中、岩の苔で滑っては川に落ち・・・
 水が激しく流れ落ちるいくつもの滝をびしょ濡れになりながらも越え・・・
 雨に降られてはブルブルと寒さで体を震わせ・・・
 我々は沢を登って行った。

 そして17日の昼過ぎ・・・
 僕は水の中にゆっくりと沈んでゆくブドウ虫をジッと眺めていた。
 釣り竿の細い先から垂れ下がる糸、その先端に付いている5mm程の白いブドウ虫がゆらゆらと川の流れに流されながら静かに沈んでゆく。
 釣り竿を持つのはTさん。数時間釣り糸を垂らすも中々釣れないTさんだった。
 僕はそんなTさんの横でその釣りの様子を眺めていた。  ブドウ虫がもう川底に沈むかと思われたその時・・・
 1m程下流にあった岩の下から突然細長く黒い影がぬっと現れた。
 魚だった。魚は一直線にブドウ虫へと泳いでゆく。
 ゆらりゆらりと尾を揺らし、ゆっくりとブドウ虫の所へ泳いでゆく。
 Tさんはホケケェーとしておりそれに気づいていない様子であった。
 僕は魚がゆっくりとブドウ虫に近づくその光景に興奮を覚えていた。
 声に出してその興奮を発散したい衝動に駆られていた。
 しかし騒いでしまったら魚は逃げてしまうだろう・・・
 僕は昂る気持ちを抑えて静かに興奮していた。
 数秒もしないうちに魚はブドウ虫へ辿り着いた。
 そしてブドウ虫を躊躇なくパクついた。
 それを見た僕は声をあげた。
 「あ・・・食った!!!!」  その一言で突然叩き起こされたかの様にTさんは釣り竿をパッと引きあげた。
 その瞬間、針が魚の口にグサリと突き刺さり、そのまま糸に引かれていった。
 引き上げられてゆく間、魚は殆ど抵抗しなかった。
 イワナだった。
 それも普通のイワナではなく・・・23年間生きてきた中で始めて目にするイワナだった。
 頭は立派で大きく、反対に体はゲッソリとやせ細っている。
 頭の大きさと体の細さ・・・実に不釣り合いな姿であった。
水から引き上げられ、釣り糸に垂れ下がっている時もぴちぴちと暴れることなくダラリとしていた。
 元気が全くない。生気が全く感じられない。明らかに弱っていた。
 そのイワナを見た瞬間、思った。
 「こいつぁこの川に住む長老に違いない・・・」と。
長老イワナ  人の殆ど入らないこの沢で静かに生まれ、静かに生き、静かに死のうとしていた。長老は寿命が身近に迫っていることを悟り自ら断食をしていたのかもしれない。
 肉はどんどん落ちてゆき、体は日に日にやせ細ってゆく。
 そして死がもう目前に迫っていた時、突然ブドウ虫が視界の中に現れた。
 ポチャンと音をたてて川に落ち、ゆっくりと沈んでゆくブドウ虫が目に入った。  「こいつを最後の晩餐にしよう・・・」そう思った長老はない力を絞り出し、ゆらゆらとブドウ虫の所まで泳いでゆき、食った。生涯最後の飯だ・・・そう思いながら食ったのダ。しかしそれは罠だった。
 我々人間の恐ろしい罠だった。
 静かに生涯を閉じようとしていた長老は成す術もなく水から引き上げられていった。その後直ぐに腹をナイフで切り裂かれ、内臓を引き出され・・・無念にもその生涯を閉じたというわけであった。
 その数時間後のことだった。
 長老を釣ったTさんが山の斜面から転がり落ち、膝を捻って捻挫してしまった。
 一緒に登っていたAさんがそれを見て、こんな言葉を走らせた。
 「でかいイワナを釣ったら絶対に逃さないとダメっすよ。絶対に逃がさないとダメっす。僕の仲間が2人、でかいイワナを釣って食ったんすけどその後に2人とも怪我をしたんすよ・・・。でかいイワナにはたたりがあります。絶対にたたりがあるんすよ」
 それはどうやら以前よっぱらった仲間から聞いた言葉らしい。
 そして膝を捻挫したTさんを見て思った。たたりだ・・・これはイワナのたたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

でかいイワナを釣ったら絶対に逃さないと・・・  その翌日、山から家に帰った時にはもう夜がすっかり更けていた。
 時計の針は12時を越えている。
 体中に重たい疲労が溜まり、意識は眠気でもうろうとしていた。
 明日は仕事。
 はぁと一つため息を漏らす。
 しかも明日は早朝会議がある・・・早く起きなければならない。
 また一つはぁとため息をもらす。僕は目覚ましをセットする為にザックから携帯を取り出そうとした。
 ガッサガサッ・・・ガッサガサ・・・とザックの中をほじくり返すこと数分間・・・携帯がない。全身が熱くなり、嫌な予感が頭をよぎり、冷汗が噴き出てきた。
 何処にもない。服の間にも、ビニールの中にも、ポケットのなかにも・・・どこにも携帯がない。
 ザックをひっくり返し、中身を全部ほじくりだして丁寧に探しても見つからない。携帯がなくなってしまったのだ。
 そしてその翌朝・・・洗濯機の蓋を開けると、洗濯物がびっしりと白いものに覆われていた。
 ティッシュだった・・・。水に濡れてふやけきったティッシュが岩にへばり付く牡蠣の如く洗濯物にびっしりとこびり付いていたのだ。
 ズボンのポケットにティッシュを入れたまま洗濯してしまったのだった。
 こんちきしょう!!!!!!僕はいきり立った。時間がねぇってのに!!
 早く家を出ないと遅刻してしまう。
 僕は呪いながら洗濯物をたたき、はたき、振り回した。ティッシュの残骸が服を離れて宙を舞い地上へヒラヒラと落ちてゆく。
 バルコニーはあっという間にティッシュまみれになった。
 でかいイワナを釣ったら絶対に逃さないとダメっすよ。絶対に逃がさないとダメっす。
 この言葉が記憶の奥底からゆらゆらと漂ってきた。
 僕は思い出した・・・あの長老を僕も食べたていたことを。


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