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雪の降る頃
小島 康明

 まだ神田の交月にルームのあった頃の私は若き世代のハリキリボーイで、山一辺倒のスキーは全然知らないおとなしい山ヤであった。
 「おい今度の日曜スキーに連れて行ってやるからな」「はあー」「スキーをやってみろ冬山なんかおかしくて出来ねえぞ、それに日影沢第一ゲレンデを時速80キロでぶっ飛ばすんだ」
 スキーは映画意外見たことはないがそれでも銀嶺を雪煙を上げて滑降する痛快さに胸踊らせ新宿に行った。同行のパーティはなくヤゾーさんが独り寒そうにベンチのところに居た。やがて現れた重原先輩の姿を見て少々がっかりした。ストックなどは持たず何か1mくらいの風呂敷を小脇に抱え常時愛用の陸軍の編上靴を履き悠々とやってきた。
 「スキーは何処にあるんですか?」ニヤニヤ笑いながら黙って付いて来いと言う。中央線に乗ったら浅川で降ろされた。少し歩くと汗ばむくらいの陽気で勿論雪などない、重さん内心気が気でないらしく缶詰の空き缶を拾い、この中に雪を詰めて滑る場所に行ってばら撒くんだと冗談を言ったりした。少し山深く入ると嶺の方に薄黒い雪が見えて安心したらしい。小1時間ほど沢沿いの道を行くと土に混じって2mくらいの雪が現れた、横2mの積雪という訳だ。
 待ってましたとばかり風呂敷の中より取り出した物は合板スキー(当時はほとんど合板スキーはなかった)、ブリキと杉板の合板である。即ち板切れにブリキを打ち付け、バンドの部分は曲げてハッケンは丁度サンダルのようにベルトを付け、スプリングワイヤーの代わりにボロ布を何とワラジの紐みたいに編んで、サンダルとワラジとスキーの合いの子のような物でヤゾーさん曰く"乞食スキー"
 さすがの重さんもきまりが悪いので風呂敷に入れてきたその気持はよく解る。兎に角履かしてもらっているうちにストックを探してきてくれた。これが1本の長い竹の棒で船頭が船を漕ぐようなスタイルでやったが雪がないのと斜面が緩いので前に進まぬ。
 「ここは雪質が悪いから上に行こう」ときた。雪質も何もあったものではない。行き交うハイカーもなかったから良かったと思う。「ここは日影沢第一ゲレンデと命名する」真面目な顔で重さんが宣言した。時速80キロは実はここだったのである。昼近く城山の急坂に着いた、ヤゾーさんは寒いのでしきりに焚き火を所望していたが、重さんはスキーを燃やされては大変なのですぐに滑ることにした。雪など全然なく霜が凍って赤土のスロープをなして少々急坂だ、やっと履かしてもらって歩き出した途端に地面に叩きつけられ、何が何だかわからないまま下まで転がりながら着いてしまい、あちこち擦りむいたり泥だらけになってしまった。兎に角雪の上より土の上の方が良く滑るので扱いにくいことおびただしい。山スキー歴20年のヤゾーさんはキャリアの相違か全然転ばない、と言うよりすぐ足を開いて止まってしまうからだ。兎に角笑い通しでの山歩きは楽しい。雪を見つけては滑る。滑降距離の一番長かったのはヤゾーさんの6mくらいだったと記憶している。何しろ狭い山道のこと、止まらないとそのまま藪の中に突っ込んでやっと止まるという始末だ。遠くで山仕事の人が異様なスタイルの私達を呆気にとられて見ていた。陣馬近くになるとハイカーもポツポツ現れたので風呂敷に包み佐々木小次郎みたいに背に縛り付け、やれエッジがどうのお前は前傾が足りないとか、言いたいことを言いながら藤野に下っていった。自分も一人前のスキーヤーになったような気持ちになって、もっとスロープの良いのがあれば上手に滑れただろうと思った。
 その頃よく冬の奥秩父に行ったものだが独り雪の将監や雁坂で雪景色に見とれ、ここで乞食スキーをやったらどんなに素晴らしいだろうと本気で考えたりした。
 10年一昔と言うが15年も前のこと、お山に雪がつく頃になるとまるで昨日の出来事のように鮮やかに頭に浮かんでくる。重さんとはすっかりご無沙汰しているが、あの"合板スキー"は今どこにどうしているだろう、思い出すにつけ懐かしき極みである。
(次号は岡野氏にお願い致します)


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