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上高地~槍ヶ岳
原口 藤雄

山行日 1964年4月30日~5月2日
メンバー (L)原口、山本(政)

4月29日
 新宿駅で冬天を後立山隊に略奪され、我々はオカンせねばならない羽目になった。5月の山でオカンさせるとは「ああ!無情な会員よ」、これも後輩のためを思えばこそのことである。オカンせずともよいようにと、山越君への差し入れにと預かった白い菊の花に祈りを込め、新宿を出発。松本からバスで上高地へゆき、荷をベンチに置き帝国ホテルの木村さんに昨年お世話になったことを謝し、山越君の荼毘場へ向かう。先日訪れた佐藤、三村君によって碑は綺麗にされてあり、私達は花を添えて線香に火を点す。過ぎ去りし今日の山越君の冥福を祈る。
 雪崩の音が聞こえてくるようだ
 若き君の姿をまぶたに感じ
 何故無理をした
 生き残った父母や
 兄さん姉さんの
 悲しみの声が聞こえないのか山越よ
 今日のこの日は快晴なのに
 雪崩も起こらぬ雪の少き岳沢に
 跳ね返る声がする
 我々に無理をしてはいけないよ
 見守る声が聞こえてくるようだ
           5月5日作
 雲一つない快晴に岳沢が7月中旬頃の姿を我々に見せそそり立っている。河童橋のたもとで食事をしていると、遺体をザイルで結び下まで降ろしてくれた岳沢ヒュッテの中村さんに逢ったので、昨年のこの日の礼を述べ、何回となく通った梓川に沿った道を夏のような暑さと草いきれが私達を迎えてくれる明神を過ぎ、前穂の東壁が左手に仰がれる頃、緑の芝生の向こうにペンキの色も新しく憩いの場としての徳沢園に着く。汗で汚れた体を冷やし差し入れのバナナとモナカを味わいながら、しばしの惰眠をむさぼる。
 13時前、横尾に後輩の天幕を見つけたのでそこに荷を降ろした。槍沢小屋に行ってもお金をとられるだけで損をするとの結論に達し、同宿することにした。時間もあるので涸沢へ雪上漫歩とシャレこんだ。無風快晴、実に気持ちがよく、こちらは岳沢と違って雪がベッタリと下から上まで付いている。涸沢団地は夏と変わらずの賑わいをみせてくれた。スキーをやっている連中もいた。私達もへたの「横スキー」ながら、あのぐらいやれたらなあと、頭の中で夢を描いたのである。下りは15分で下に着き横尾での一夜を明かした。
5月1日
 昨日の天気とはうって変わり重苦しい天気、これも雨男の想いがこもっていることだろう、ままよ行ける所までとのんきに歩き出した。一ノ俣山荘は雪崩で潰され使用不能。槍沢小屋の手前で降り出したので小休止、どうしようかと考えて運を天に任せキジをうったら小止みになったので歩き出す。槍沢小屋から先はベッタリ雪が付いている。殺生小屋がガスで見えたり隠れたり、徐々にガスが濃くなり視界5mぐらいで肩に着き、みぞれ模様の中を槍の頂上へ向かった、頂上に着く頃には雪になり誰も居ない頂上に別れを告げ早々に下った。登りと違ってグリセードを楽しみながらの下りでいい気持ち、後立山隊の重荷でバテる者の気持ちを考えると感無量である。途中で土砂降りとなり濡れ鼠ならぬドブネズミの体で帰幕、雨漏りのする天幕に週刊誌のとじ込みを外しベタベタと貼り付けた観はなかなか見事だ。時間もあるので名コックの腕の見せどころとばかり肉団子にカツ、野菜サラダを料理、バンドを緩めての食べようでしばしは、下を向けないくらいであった。
5月2日
 朝のうちは雨があったが8時に止んだので荷をまとめ、時々晴れ間の見える山々の頂きに別れを告げ、バスの人となった。バスの窓から時々姿を現す山つつじの美しさに見送られながら帰京。
 美しく咲き誇らんと山つつじ
  短き命今を唱わん

〈コースタイム〉
4/30 松本(5:10) → 上高地(7:30~9:10) → 徳沢園(10:45~11:00) → 横尾(13:00)
5/1 横尾(6:15) → 一ノ俣(6:50) → 槍沢小屋(7:50) → 槍ヶ岳頂上(10:50) → 槍沢小屋(12:00) → 横尾(13:15)
5/2 横尾(9:45) → 上高地(12:30) → 松本(13:10)

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